最強の糟糠の妻(下)

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最強の糟糠の妻

ナポレオンのように叩き上げでトップに立った人は、漢の高祖の劉邦と、豊臣秀吉がいますね。

漢の高祖は戚夫人、秀吉は淀殿という、それぞれ寵姫がいましたが、貧乏なときに娶った正妻がいました。

愛情がなくなって、ほかに寵姫ができても、離婚はしませんでしたが、一夫一妻多妾制だったから可能だったんでしょう。

一夫一妻制で、嫡子にしか継承権がない場合だったら、どうなってたかは、わかりませんね。

劉邦の妻、呂后

百姓のせがれだった小役人が、風雲にのり天下を取り、漢の高祖になりました。それが劉邦です。

劉邦の正妻の呂后は、小役人だったころにめとった妻で、糟糠の妻です。

呂后は、まだ、劉邦が貧乏な小役人だったころに結婚し、百姓仕事をしながら、皇太子になる息子と、公主になる娘を生み育てました。

劉邦が天下を取る段階で、富裕だった呂后の実家から援助が大きかったですし、呂后の兄は、戦死しています。

さらに、文献をみるかぎりでは、おそらくは、呂后は霊能者でしたから、劉邦も粗末にはできなかったでしょうね。

飲んだくれの大法螺吹きといわれてた劉邦も、相当、気を使ってたんじゃないかとおもわれます。

 

秀吉の正妻 寧々の運

秀吉は、若いころ娶って苦労をともにした正妻寧々さんを大切にしてました。

この方は、ほんとうに気の毒なほど女性が好きなひとで、大奥には側室以外にも、手をつけたたくさんの女性が、ひしめきあっていましたが、あんまり目だった混乱はなかったようです。

かりそめでも、関係を持った人は、経済的に不自由はさせなかったことと、気配りが超人的だったので、女性同士の争いおこらず修羅場にはならなかったみたいですね。

秀吉は、最高権力者に登ったまま「畳の上で」なくなりました。

秀吉の正妻のネネさんは、秀吉がなくなったらさっさと出家して京都に隠遁し、豊臣家が滅んだあとも悠々自適で長生きして大往生しました。まれみる強運の方です。この人も、ジョゼフィーヌと同じで、だれと結婚しても、相手は天下人かそれに近い人になったでしょう。

呂后の運

呂后は、夫の劉邦が皇帝になり、夫がなくなったあと、息子の皇太子が即位して、皇太后となりました。

呂后の実家は平家のように栄えましたが、ご本人がなくなったあと実家は没落したところをみると、この方も「だれと結婚しても、結婚相手は天下を取れる」という、ものすごい運をもっていたかただと思いますね。

呂后の父も、観相をよくした人でしたから、父親も霊能者だった可能性は高そうです。遺伝したのかもしれません。

呂后は三姉妹の次女だったようですが、幼少時から、父は次女が貴相であることを尊び、次女の結婚には期待をしてたようです。

まだ、秦王朝が盛んだったころに、県令から嫁に欲しいと申し出があっても、断っています。

しかし、百姓の末子だった飲んだくれのゴロツキだった劉邦に、自ら申し出てて娘を貰ってもらいました。理由は、劉邦が「貴相だったから」だそうで、のちに劉邦は皇帝になりましたから、鑑定結果は正しかったようです。

寧々さんや、ジョゼフィーヌと同じく、呂后も、だれと結婚しても、相手は皇帝かそれに近い人間になったと思われます。

父は観相をよくしたし、本人も「気」を見れたという話が多く残ってますから、霊能者だったと思うんですね。このかた。

三大悪女

しかしながら、呂后は、霊能者であることより、夫の妾の戚夫人に対する「ヤキイレ」の仕方が強烈だったことと、政治力があったため「中国三大悪女」として評価が固まっています。

戚夫人に対しておこなわれた「報復」の発端は、側室の戚夫人が劉邦に泣きついて、呂后の息子の皇太子を廃し、自分が生んだ息子を皇太子にしようとしたことに対する報復でした。呂后のやりかたは、えげつなかったですが、冷静に考えると、これ、正当防衛なんですよね。

絶対権力者の劉邦が「皇太子を廃太子にして、戚夫人の子を太子にしたい」といっても、だれも賛成しませんでした。

宮廷も後宮も、好色で飲んだくれの劉邦ではなく、正妻の呂后と古くから使えている家臣でもっていたんだと思います。

戚夫人の子供に立太子する正当性もなしと、世間はみなしたのは間違いなく、戚夫人は劉邦の寵愛だけが頼りで、派閥一つまともに作れませんでした。人望がなかったのでしょう。

話が長くなりましたが、

結論

叩き上げで出世した人は、嫁は変えないほうがいいヨ

 

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