十字の紋と日本
オカルトの記号
同じ記号を合わせると、パワーをもつのでしょうか
2016.04.16
拙ブログへお越しいただきありがとうございます。
法則として、同じ記号を合わせると、パワーをもつのでしょうか。
ダビデの六芒星
蛇の目
もともと魔除けにつかってた記号で、朝鮮の役では、日本側はこれを共通した印としてつけたと記憶してます。メソポタミアでは「あ」の文字だとか。
正卍
お寺のマークの卍。一説には銀河を現す文字だったとか。
出口王仁三郎の大本教と提携していたのが、中国の世界紅卍道教会でしたね。
自動書記・フーチをおろすところで有名でした。
検索すると、「大本がカルト」「世界紅卍同協会とはカルトつながり」みたいなサイトがトップページに出てきますね。
はたして真に受ける人いるのか不明ですが、皇室掲示板の書き込みでも似たようなコメントをみかけましたね。今、例の方々の間では「大本はカルト」キャンペーンの最中なのかもしれませんね。
逆卍とヒトラーとナチス
こっちはナチスの逆卍。
逆卍なので、負の効果をもつらしいのね。
ナチスのオカルト部隊が、チベットで見つけてきたマーク。
シュタイナーだかユングだか忘れたけど、このマークを見たとき、ブラックパワーだと叫んだそうな。
シュタイナーは、ヒットラーが唯一恐れた人。毒殺されたみたいね。
ヒットラーも霊媒だったけど、霊媒同志の葛藤ってきついと思うわ。
シュタイナーの学校に火をつけたり、ストーキングさせたりして、シュタイナーを弾圧しまくってたところをみると、シュタイナーが本気で怖かったみたい。
十字架とキリスト教
吸血鬼も撤退。ご存知十字架。磔刑の形だからと言ってるけど、どうなんでしょ。
紀元前から強烈な魔を封じるオカルト的なシンボルだったはず。
島津家の十字の紋
日本の名家の一つの島津家の家紋って、丸に十字の家紋だけど、
本来は、◯がなくて、十字だったらしいのね
戦国時代に来日した宣教師さんが、
「十字の紋をもつ諸侯がいる。でも、キリスト教徒ではない」
と、本国に報告しているわ。
島津氏の家紋は「丸に十の字」である。しかし、昔は外郭の丸はなく、単に筆書体の「十」だけであった。 これは鎌倉初期の島津忠久着用の甲胄につけてある十文字でわかる。また、『蒙古襲来絵巻』にも、 久親・久長の兵船の旗に十字紋があり、『 見聞諸家紋』でも筆書体の十字である。
ところが、徳川期になると、 礼装用の紋に転化したために、多くの武家が外郭に丸を付けるようになった。島津氏もこれにならい以後、 定着したものである。
(ここまで)
こちらのサイトによると、島津家の紋について、、
http://www2.harimaya.com/simazu/html/sm_kamon.html
1 二匹の龍を組合せたもの
2 二本の箸を交叉して出陣戦勝の呪いにしたもの
3 キリスト教の印とする説
4 「十字を切る」という形の呪符
5 轡紋から転じた
・4が定説となっている
・キリスト教などの入る前から、 島津氏は十字紋を用いていたので十字架説などは問題にならない。
・十字紋はもっとも古い紋のひとつで、歴史的にも名高く、鎌倉時代は清和源氏の小笠原・逸見・田沢・志村の 諸氏も用いたが、のちには島津氏に遠慮して廃止している。島津氏は宗家以外は十字の原形を少しずつ 変えて用いている。
以上
秦氏と景教
平安京を作ったテクノクラートの秦氏
戦国時代以前に、日本ってキリスト教徒の接点があるのよねー。とくに、近畿地方は、バリバリ。
平安京を作ったテクノクラートの秦氏。
高い技術力と、資金をもち、養蚕、農業、建築、土木、酒造、紡績産業を独占してた一族だけど、中国系ユダヤ人の方たち。景教徒だったらしい。
景教徒・ネストリウス派(wikiさんより)
ネストリウス派とは、古代キリスト教の教派の1つ。コンスタンティノポリス総主教ネストリオスにより説かれた。
431年のエフェソス公会議において異端認定され、排斥された。
これにより、ネストリウス派はペルシャ帝国へ移動し、7世紀ごろには中央アジア・モンゴル・中国へと伝わった。唐代の中国においては景教と呼ばれる。のちアッシリア東方教会が継承した。
(ここまで)
景教=ネストリウス派
ユダヤ教の分派の一つがキリスト教
キリスト教の分派の一つが、ネストリウス派。
ネストリウス派の特徴の一つに、キリストは、ヨセフとマリアの夫婦間の交渉によって生まれた人であり、処女受胎を否定しているのね。ま、普通考えたら、そのほうが自然よね。
秦氏とユダヤと日本
・ヤーウエイ→弥栄(ヤエイ)神社→弥栄(やさか)神社→八坂神社
・ZIONジオン→祇園(ギオン)
契約の箱を忠実に再現したら、日本の御神輿になるとか、
ユダヤ教と神道や修験道との共通点が多すぎるのは確かみたい。
私は、この同祖論を支持している人。
ラビさんと日本の行者さん、似ているとかいうレベルではないと思う。
平安京と桓武天皇と碧眼
聖徳太子が、紫がかった碧眼だったのは朝鮮の資料で明らかなのだけど、桓武天皇の将軍だった坂上田村麻呂は、詩にも「金色の産毛に鷹の目」とか詠まれてて、肖像画とは別に実際は金髪碧眼だったらしいし、、、、、
こちらは桓武天皇、目鼻立ちくっきりしているのね。
桓武天皇が、京都を開闢するとき、牛を屠る儀式をしているのね。動物殺したりするのは、日本では不浄とされるので厭うはずなのだけど、こういう儀式は神道にはないはず。
平安京を作らせた桓武天皇や、桓武天皇に鍾愛されてた最澄が碧眼だった可能性あると思う。
桓武天皇と八坂神社と紀姓堀田氏
桓武天皇が、京都を鎮めるためにつくった装置の一つが八坂神社なのだけど、ここの初代神主に、朝鮮にあった日本の植民地でバリバリ活躍してた霊能者を呼んだらしい。
八坂神社の初代神主が、紀姓堀田氏の人らしくて、わざわざ呼んでくるくらいだから、霊能者として、バリバリだったのではないかしら。
紀氏とは(wikiより)
記紀などの所伝によれば、孝元天皇の子孫で、武内宿禰の子である紀角宿禰を始祖とするが、この2代はともに母方が紀伊国造家の出自であったとされており、この関係から紀氏は早くから武門の家柄として大和王権に仕えたらしい。
具体的には、雄略天皇朝の小弓、顕宗天皇朝の大磐、欽明天皇朝の男麻呂などが、朝鮮半島での軍事・外交において活躍したと伝わる。
葛城氏・巨勢氏・平群氏などと同じく武内宿禰系の豪族であるにもかかわらず、大化前代に大臣を出していない点は留意されよう。
(ここまで)
紀氏と竹内宿祢
紀氏のルーツが、バリバリの霊能者だった武内宿禰だったらしい。
武内宿禰(たけのうちのすくね)(wikiより)
記紀に伝わる古代日本の人物。
『日本書紀』では「武内宿禰」、『古事記』では「建内宿禰」、他文献では「建内足尼」とも表記される。
「宿禰」は尊称で、名称は「勇猛な、内廷の宿禰」の意とされる。
景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代(第12代から第16代)の各天皇に仕えたという伝説上の忠臣である。紀氏・巨勢氏・平群氏・葛城氏・蘇我氏など中央有力豪族の祖ともされる。
(ここまで)
一人の人物が5代にわたって仕えたのではなくて、代々「武内宿禰」を継承してきたんでしょうね。
神功皇后と応神天皇に仕えた方が、一番有名なのかな。
八坂神社と津島神社と織田信長
京都の八坂神社・堀田氏が、中世に近畿外に進出して、名古屋にゆった派が津島神社の祖となったそうな。ちなみに、織田信長の織田家は、剣神社という神社さんからでていたとおもうのだけど、なぜか、津島堀田家と同じ家紋なのね。
信長は、神社も寺院も壊しまくった人だけど、津島神社の祭神を祀っているところは、勘弁したらしいの。なので、この時代、急きょ、牛頭天王=スサノヲをまつる神社さんが爆増したらしい。
この流れから見て、織田家と津島神社とは、結構関係が深そう。
秦氏と八坂神社と島津氏
秦氏と八坂神社(Wikiさんより)
八坂神社のもう一つの紋である三つ巴は、同じく秦氏と関連性の強い八幡神社と同じ紋である。
そもそも八坂神社の方でも、八坂氏は同族の他の系統と区別するために八坂と名乗っていたが、それは氏でなく家の名前であって、実際は一族としては秦と名乗っていた可能性がある(藤原氏の中で家名が多くあったのと同じ)。
諸説はあるのだけど、、
秦氏の分家(wikiさんより)
・秦首、秦公、秦人、秦子、秦冠、秦姓。
・勝氏、忌寸氏、部氏[27]。
・朴市秦氏(えちはた) – 近江国愛知(えち)郡。
・内蔵氏、大蔵氏(漢氏と共通)。
・朝原氏、太秦氏、長蔵氏、長田氏
・惟宗氏
・薩摩島津氏 – 惟宗氏からの派生氏族。
島津氏自体は当初は藤原氏末裔、後に源氏末裔を自称。
(ここまで)
そして島津氏の十字の紋
島津家の十字の紋、やっぱり、ネストリウス派の十字架から来てるんと違うんかな、と思うのだけど、どうなんだろう。
ちなみに
朝鮮人の妄想落語の一つに、秦氏は朝鮮系渡来人であるので、京都を作ったのは朝鮮とか、島津家が朝鮮系渡来人だとか、天皇は朝鮮人がとかいうのがあるけど、無理があるのね。
天皇の祖は九州からきたの。でもたぶん、エフライム族なの。
秦氏はユダヤ系中国人なの。
今の朝鮮半島の民とは関係ないの。
ダラダラ書いてみたけど、何が言いたいかというと、
古代日本は、オカルト満載で面白いの。