日記|名君の芋|ジャガイモ&サツマイモ

名君の芋|ジャガイモ&サツマイモ

江戸時代の名君と芋

無粋で洗練されてない人や物をイモと表現することもあります。

江戸時代、流行と消費の都市であった町人の粋とは間逆に、武家の質朴さをからかった川柳が沢山残っていますね。

支配階級のほうが貧しかったという文明って珍しいと思う。

当時のサラリーマンであった武家は、本当に、質素な暮らしを余儀なくされていました。

なんせ、江戸幕府が開かれたときから、物価はあがるのに、禄米は増えなかったんだから、お武家さんは、内職は当たり前だったらしい。

それでいながら、権威を維持していたのも、世界的に、珍しいと思う。

わが国では、基本的に、財力=権威ではないんだよね。

ある意味、質朴剛健という意味で、もっとも武家らしかった君主の一人が、徳川宗家の8代目。吉宗だとおもうのだけど、この人は、日本連合軍の総帥というより、エコノミストであり、すぐれた経営者でしたね。

武士が、政権が安定するとと、公家化する傾向があって、5代目綱吉なんか、モロに京都の波をかぶった人だったけど、、この人は、紀州の山海で育った人でした。

尚武の君主だったけど、文化的素養は、いまひとつだったらしい。歌を公家に「下手くそすぎい」と、笑われてたりします。

でも、雨の降水を記録したりして、科学的な頭脳を持ってましたね。

そして、破産寸前の紀州徳川家を建て直し、宗家に迎えられて将軍になるわけですが。

衰微にむかう政権、文明の、負への速度は止まらなかったけど、政治家として、エコノミストとして、業績を残しました。

政策の一つに、サツマイモの栽培があります。

サツマイモの栽培は、幕府指導で広まった食料対策でした。もともとは、沖縄の芋で、それが薩摩に伝わり、サツマイモと呼ばれるようになり増した。

この人の治世では、経済と、飢饉が、最大課題でした。

人口は増える、石高は増えない。海外との貿易はできない。一貫して、デフレ時代が続きます。

征夷大将軍ではあったけど、エコノミストとして生きた人で、私の大好きな名君の一人でもあります。

外部の天候に限らず地下で実を育てるサツマイモは、先の大戦でも貴重な食料になってくれました。

 

 

欧州の名君と芋

欧州にも、名君によって栽培が広まった芋があります。

ジャガイモ。

欧州の名君、プロイセンのフリードリッヒ大王は、ジャガイモの栽培を奨励しました。

ただでさえ、ドイツは、寒いし、日照時間がすくないし、乾燥しているし、土地は痩せているしで、農業に不利な土地なのに、戦争がおおくて、馬蹄にあらされて麦も育たないこともあるドイツでは、小麦にかわる主食となるのにふさわしい農作物でした。

しかし、芽が出てしまったジャガイモを食べたため、健康を害する人が続出。なかなか広まりません。

しかたがないので、国民の目の前で、フリードリッヒ大王が、ジャガイモを食べてみせ、安全性をアピールしたエピソードがあります。

 

未知との遭遇と交換

梅毒とジャガイモ

ジャガイモの原産地は、新大陸アメリカ。

新大陸と、欧州大陸との邂逅により、さまざまな物々交換がなされます。

ジャガイモ、コーン、薬草、などの有意義なものばかりではなく、病気もまた、交換されました。

欧州人が持ち込んだ病気、はしかなどによって、インディアンは壊滅する部族も出ています。

その部族の一つが、なぜか、金髪碧眼だったそうです。欧州人が持ち込んだ、はしかで全滅したと記憶しています。

新大陸の病であった梅毒が、欧州に入り、わずか、100年をたたずに、貿易を通じて、世界中で伝播することになりました。

 

豊臣政権と梅毒

日本にも、戦国時代にやってきて、伝播し、豊臣政権に打撃を与えています。

徳川一世の庶子にして、秀吉の養子になった結城秀康、この人も罹病し、鼻が欠けてしまったらしい。

桐でつくった、付け鼻をして登城したところ、実父の家康に、武士らしくない、堂々とするべし、とたしなめられています。

秀吉亡き後、養家である豊臣家でなく実家の徳川家についたのだけど、健康だったら、もっと、政治的にも動いて、両家の仲立ちもできたのではないだろうかと、思ってしまう。

豊臣家の忠臣、加藤清正も梅毒にかかっていますね。

この人の肉体は欠けることなく、精神も腐食することがなかったが、早くになくなりました。

死体が黒かったらしい、というのを何かで読んだことがある。

豊臣滅消を決めていた徳川方におる毒殺だろうという噂が、今も昔も絶えない。

秀吉の養子の一人、小笠原秀秋の愚昧さも、もしかしたら、この病によるものではないだろうか。

亡くなり方も、実際、おかしかった。

梅毒による知識も正確になく、衛生に関する知識も薄かった時代で、かつ、豊臣政権が、享楽的な時代の、さらに享楽的な政権だったので、美男美女や特に遊女との接触を通じて伝播する病は、一気に広がりました。

 

家康が天下を取った理由

家康が健康オタクだったのは有名です。

この人が天下を取れたのは、健康管理ができていて長生きしたから。

自分で薬を調合していたし、性病の感染をおそれたのか、妻妾の数は多かったけど、他人の妻や、遊女との接触を一切持ちませんでした。

反面、享楽的な、豊臣政権の重臣、忠臣には、この病に感染する人がおおかったとおもう。

そのため、徳川連合の豊臣家にたいする、容赦のない焚殺をとめることができる人が薄かったのかな、と。

豊臣家を滅ぼしたものの一つが、梅毒だったのかな、と。

つれづれ書いてみました。

以上

ブログ・でれでれ草「皇室の影武者制度とタブー」

小室圭と婚約内定した眞子様はニセモノ




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