日記|巨人連隊と加賀鳶

巨人連隊と加賀鳶

国の看板

昔、遣唐使のころ、日本側は、特使や留学生は、わざと、長身の人間を選んだらしい。

そのため、大陸側は、日本人は長身の民族だと思ってたらしい。

国の看板にするには、長身のほうが有利だということなのかな。

麻生総理がドイツを訪問したとき、空港でベレー帽かぶったドイツの兵士さんたちが、警護でずら〜〜っと、並んでる中、あるく動画をみました。

 

 

どこの国でも、儀礼用の儀仗兵は長身の人を選ぶ傾向があると思うけど、ドイツの儀仗兵さんたちは、175センチの総理と対比すると、一人ひとりが2メートル近い身長のように思う。

同じ髪型、同じ顔(に見える)、同じ身長が、ずら〜〜と並んで、まさに、ベルリンの壁のよう。

 

プロイセン巨人連隊

そのときの動画をみて、プロイセンの巨人連隊も、こんな感じだったのかな、と思いましたね。

啓蒙君主であったプロイセンのフリードリッヒ2世の父は、兵隊王と称されるほど、軍隊が好きな王様でしたが、変わった趣味を持っていて、とにかく背の高い男性を欧州中からコレクションして、兵士にし、巨人連隊を作って喜んでいました。

巨人連隊wikiより

王はそういう気に入った兵士の肖像画を描かせたり、像を彫らせたりして宮廷に飾った。

連隊はポツダムで閲兵行進や訓練検閲を行い、その様子をプロイセンに駐在する各国の外交官に見せた。一糸乱れぬその動きは彼らを唸らせたが、その感想は様々だった。プロイセン軍はとても強力だと感心する者もいたが、王の奇癖、道楽にすぎないと軽視する者もいた。たしかにこの連隊に限って言えば、これは王の道楽だった

 

連隊の中には、スコットランドから連れてこられた216センチの身長を持つ兵士もおり、なかには、領地の内外から、「体がでかい」という理由で、無理やり拉致されてきた兵士もいたそうです。

 

南北の身長差

民族の身長は、おもに日照と関係あるらしいですね。

縦に長い日本でも、東北と、九州では、平均身長が違うかもしれませんね。

東京に来たあと北九州に講演にいった外国の講師の方が、東京と九州では人種が違うのか、と聞いたらしい。

北方系のプロイセン(ドイツ)は、日照が薄いので、今も昔も身長が高いらしいですが、カエサルの頃のローマ人は小柄だったそうな。カエサルのころ、北のゲルマン人と南のローマ軍は、戦場で未知との遭遇を果たしました。

ローマ軍は、初めて見る北方の異人種の事を、

「でかい、白い、目が青い」

と称しています。まさに未知との遭遇です。

この噂がローマ軍に広まり、戦う前から軽い恐慌を起こしています。

あの地方の人々は、昔から、「でかい、白い、目が青い」かったので、巨人連隊も、「でかい、白い、目が青い」人が多かったとおもう。

 

極度の癇癪もちでニコチン中毒だった王様は、兵隊軍隊が好きだったけど、この人は戦争はしない人でした。軍隊は訓練されたまま兵力は、保留されたままでした。

実際に、プロイセン軍が活躍するのは、息子のフリードリッヒ2世の即位からはじまります。

「フリードリヒ・ヴィルヘルム1世 タバコ」の画像検索結果

フルートをかなで、ボードレールと語り、「反マキアベッリ論」という著書も書いたフリードリッヒ王太子は、即位するなり、マキアベリズムを体現したかのような君主になりました。

実利的な能力の高い人で、即位して即、巨人連隊を解体し、ほかの連隊に吸収させています。

オーストリア・ハプスブルクから、鉱物豊かなシュレジェンを電光石火で奪うと、新聞を媒体としたメディアの後援をうけ世論まで煙に巻きます。

その後、皮肉屋で禁欲的で冷酷辣腕、仕事中毒の君主になりました。

同時代を生きたライバルだったロシア女帝の後継者ピョートル、ライバルのハプスブルク女帝マリア・テレジアの皇太子、皇帝となったナポレオン、カリスマ独裁者のヒトラー、いずれも、フリードリッヒ大王の大ファンでした。法を超えた存在の人たちを、熱狂させる何かがあるのでしょう。

 

加賀鳶

加賀鳶というのは加賀藩の直営の火消し=消防隊です。

ご存じのように、当時世界一の人口を誇った江戸時代の政治の首都・江戸は、木造都市でした。

開幕した当時は、漁村にすぎなかった江戸が、その後発展を続けて、人口が大英帝国の首都ロンドンをならぶ、消費都市になります。

木造建築のうえに、地震が多い地域なので、高層化ができなかったんですね。

ので、人口密度がいやでも高くなります。

今と比べても、住宅事情はよろしいとはいえませんでした。

空気が乾燥しているうえに、埋立地でもあったので、慢性的な水不足。

火事にとっては、理想的な環境です。

一度火がつくと、都市全体が乾燥した薪の状態になってしまう。

何度も、江戸のほとんどを燃やし尽くす火災が発生し、絶大な被害がでています。小さな火事も、頻繁にありました。

これに対応するために、幕府が消火する連隊を作ったのは有名な話ですね。

消火と言っても、今と違って放水車があるわけでもなく、水はほとんど使えないので、火の移った建物を壊して被害を防ぐしかありません。

江戸には各藩の大使館ともいうべき藩邸がありましたから、幕府は、藩お抱えの火消しを持つようになります。

その中で、もっとも、注目を浴びたのが、加賀藩の加賀鳶でした。

文化大国である加賀藩は、100万石の財力が京都文化を結びついて、今も昔も、こびない典雅さを体現している藩です。

加賀のセンスが火消しにも体現されていました。

平均身長が155センチという時代に、180センチの大柄の男子を集めたこの連隊は、派手な揃いの半纏に皮袴といういでたちで、右手右足、左手左足を同時に出す歩き方で、江戸市民の話題と注目をさらいました。

幕府直轄の火消しさんたちは、面白くなかったらしい。

ただでさえ、短気で喧嘩はやい土地柄。

ここで、殺傷事件に発展してしまいます。

幕府直轄の火消しと、加賀鳶との争いで、死者がでてしまいました。

死傷したのは、幕府の火消し1人。

加賀鳶側にはもんだいはなかったらしく、売られた喧嘩を買ったら、不幸にして、あいてが亡くなったという事件でした。

当事者が、幕府と大藩を背景にしているので、問題が大きくなりました。

目撃情報から、加賀鳶側には問題はなかったのだが、幕府の面子もありややこしいことになりそうだったけど、結局、将軍自ら吟味して、お咎めなしという形で納まります。

このときの将軍は、徳川吉宗。

火消しの制度は、この人のアイデアでした。

この人もまた、身長が180センチを超える大柄な人でした。

そして、フリードリッヒ2世と並ぶ、名君でした。

以上

 

ブログ・でれでれ草「皇室の影武者制度とタブー」

小室圭と婚約内定した眞子様はニセモノ




画像を分析すると、大正天皇ご夫妻には影武者らしき存在が確認できる。影武者制度は、皇統をまもるため有事の時に備えるための制度だったと思われるが、戦後、代理人である影武者たちの暴走が止まらない。 ①勝手に活動を行いそれを公務として報道している、➁勝手に影武者が婚約会見を行い皇族の配偶者を決めた、③朝鮮系と思われる女工作員が愛子さまになりすまして女性天皇になろうとしている。公開映像、画像などオープンソースを中心に検証しています。

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