先日、海をみにいってきた。
海岸で、ただ、ただ、波をみていた。
暑かった。
でも気持ちのいい日だった。
日本の海は、見ているものに、
その向こうになにがあるのだろうかとか、
どんな世界があるかとか、
征服欲や、冒険心を奮い立たせる何かがかけている気がする。
癒されて、家に帰ろう、見たいな感じ。
大航海時代を自発的に迎えなかったのも、
鎖国状態が長かった理由も、ここら辺にあるきがする。
「お魚一杯恵んでくれて、ありがとう海」とおもう、
海から出る日の出を見て拝む、
海にお日様が沈むのを見て拝む、
ありがとうの気持ちで帰一して、
そして家に帰る。
国の制度の活性化のために、あるいは禅や仏教を導入するという宗教的な理由から、律令時代から、大陸に人材を送り、官僚や知的冒険者達が自発的にわたったりしたものの帰ってくるのがアタリマエという意識の下にみんな舟に乗った。
そして、空海も最澄も、お利口さんの伝書鳩のように帰ってきた。
鎌倉室町は、大陸との行き来もあったし、戦国時代は傭兵が海を渡り活躍していたし、戦国時代には、普通に海外旅行にいっていた気配が、カンボジアのアンコールワットの落書きで判明している。
でも、帰ってくるのは、ここ、という意識が普遍にあるようだ。
海を見て、向こうには何があるのか、行ってみよう、とか、大航海時代の欧州の人のように、冒険心も発生しなかった。
バイキングのように、土地も貧しく過酷な気候で、食い詰めて、こんな土地嫌じゃ、海にでていくしかない、とか、そういう危機ももたなかった。
現代でも、故郷を完全に捨てて海外に移住する人が、他の民族に比べて少ないような気がする。
海の向こうに大陸があり、島があり、
いろんな人たちがすんでいる。
アメリカでは、天動説を信じている人たちが、ある地域に一塊になってすんでいるという
彼らは、NASAの映像や写真は、ヤラセ、イカサマであると信じて、地球は平たいと信じながら日々真面目に生きている。
オーストラリアでは、カンガルーを狩ったりしながら狩猟時代のままの暮らしをしている人がいるらしい。
ただ、この人は欧州人で別に原住民族でもなく、欧州からやってきてビザが切れてもそのまますみつき、何度も身柄を保護もしくは拘束されるのではあるが、そのたびに施設から逃げ出しても、また、荒野にかえってしまう。
当局もほっておいているらしい。
メキシコでは、かなり前、某市長さんが辞任した。
市長さんは辞めるつもりはなかったのだが、市長さんの政治手腕に疑問を持つ市民が大量に市長室に押し寄せて、市長さんに無理やり大量のバナナを食べさせて、自主的なる辞任を促したらしい。
いろんなひとが、海の向こうのいろんなところで、
いろいろな形で生きている。
海はひろいなあ
以上